“If you worship Satan, do you believe evil is good?”――サタンを崇拝するなら、悪が善だと考えるのか。もっともな疑問ですが、私たちが共有していない定義を出発点にしています。
高位サタン教会は、残酷さが規範を破るからこそ美徳になるとも、サタニストなら通常の責任を免れるとも教えていません。私たちの神学は、道徳を外部の宗教的権威への服従だけに還元できるという考えを退けます。だからといって、何も残らないわけではありません。むしろ、行動が現実の人々に何をもたらすか、その人の人格について何を示すか、行動する本人が結果を引き受ける意思を持つかによって判断するという、より難しい課題が残ります。
道徳的絶対主義を退けることは、倫理を退けることではありません
宗教上の議論では、定められた神の規範を受け入れるか、何にも意味がないと認めるか、という二択がよく示されます。私たちは、その二者択一を退けます。受け継いだ道徳規則に疑問を持ちながらも、同意、誠実さ、相互性、責任、不必要な苦しみを、真剣に考えるべき倫理上の問題として扱うことはできます。
自律は私たちの神学の中心にありますが、何をしてもよいという許可ではありません。自分の自由が、他者の判断を操ること、結果を相手に隠すこと、拒む力を奪うことに支えられているなら、それを主権の実践と呼べる実質はありません。他者の主権を弱めているのです。
ここでいう “darkness”、つまり闇とは何か
私たちがdark(闇)、sinister(シニスター)、Left-Hand Path(左道)といった言葉を使うとき、その意味は神学的、象徴的なものです。暴力、人種的憎悪、犯罪、政治的過激主義への賛同を暗に示す言葉ではありません。隠されているものと向き合い、無条件の服従を拒み、押しつけられた理想に自己を溶け込ませるのではなく、個人としての霊的な生を育むことを指しています。
この区別は重要です。同じような言葉を、まったく異なる目的に使ってきた運動もあるからです。用語が共通していても、倫理、系譜、組織が共通することにはなりません。教会が公開する規則では、強制、虐待、過激主義的な政治活動、テロ行為、犯罪行為を認めていません。
結果への責任はなくなりません
行動した本人が霊的に正当だと感じていても、その行動が倫理的になるわけではありません。意図は大切ですが、予見できる影響も大切です。無謀な行動で害をもたらした人は、それを秘儀参入、解放、試練と呼び直しても、その害を消すことはできません。
私たちが大げさな霊的表現に慎重なのは、そのためでもあります。言葉によって、ありふれた身勝手さが深遠に聞こえることがあります。倫理を考えるうえで役立つ問いは、もっと平明です。何を選んだのか、誰が影響を受けたのか、その時点で何を知っていたのか、そして今どのような責任を引き受けるつもりなのか、という問いです。
異論を述べることは認められています
教会には教義がありますが、会員は確信があるように振る舞うことを求められません。倫理上の意見の相違は、不忠実さではなく、真剣に考えている証しである場合もあります。会員は解釈に異議を唱え、規則の根拠を尋ね、神学上の主張と実際の運営方針を区別することができます。
この意味で、サタン信仰の倫理は、判断を他者に委ねないからこそ、厳しいものです。個人には、自分で考え、身勝手な正当化に気づき、他者の意思決定を尊重し、自分の行動を誠実に擁護できないときには方針を改めることが求められます。
では、サタニズムは “evil”、つまり悪なのか
悪が特定の宗教的権威への服従を拒むことを意味するなら、多くの伝統は、その定義に従ってサタニズムを悪と呼ぶでしょう。言葉を置き換えるだけでは、この意見の相違は解消できません。
教会が残酷さ、他者を食い物にする行為、欺き、無差別に害を与えることを美徳として教えるのか、という問いなら、答えはいいえです。私たちの道は、押しつけられた霊的権威に対抗します。他者を使い捨てにしてよいとする神学ではありません。
この区別は、世間の固定観念ほど劇的ではありませんが、より役に立ちます。倫理が実質を持つのは、行動に見栄えのよい呼び名を与えるときではなく、人が実際にどう行動するかを律するときです。