有神論的サタン信仰と無神論的サタニズムの議論は、しばしば信念の問題として語られます。つまり、サタンの文字どおりの実在を認めるのか、それとも心理的な構成物、元型、有用な虚構と解釈するのか、という問題です。しかし、この捉え方では、二つの道を隔てるものの深さが十分に伝わりません。その違いは、形而上学だけの問題ではなく、姿勢、向き合い方、そして内面そのもののあり方に関わります。
実在する相手への呼びかけが持つ重み
いかなる実質的な意味でもそこにいない相手に語りかけるとき、その言葉は根本的には自分自身のものにとどまります。自らが投影した元型によって豊かになるかもしれませんが、結局は誰かに受け取られることなく、自分のもとに戻ってきます。自己を省みる実践としては、それでよいのです。しかし、それは献身ではありません。
献身には、自己とは別の存在が必要です。自分を超えた存在に声を聞かれ、応えられ、自分を知られるという、現実の可能性が必要なのです。有神論的サタン信仰の実践者は、現に臨在し、その呼びかけを受け止めることのできる存在の前にひざまずきます。それによって、その後のすべての営みの質が変わります。
真の祈りとは、望む結果を虚空に向かって繰り返すことではありません。望みどおりに応えることも、応えないこともある主権者に自らを捧げ、自分の意思を超えるその主権を受け入れることです。
信仰から生まれる修練
有神論的サタン信仰の実践者にとって、修練はまったく異なる性格を帯びます。単なる手段ではなく、自らの欲求をより効果的に追求するためだけのものでもありません。修練そのものが、献身の一つの形なのです。定期的な実践、手入れを続ける祭壇、真剣に取り組む学びは、実在する存在との関係に誠実であり続ける行為です。
知られるということ
真の有神論的信仰がもたらす最も深い意味は、広大な知性と知覚を持つ存在に、ありのままの自分を知られる可能性にあるのかもしれません。無神論者が交わるのは、自らの無意識や投影です。有神論的サタン信仰の実践者は、自分が思い描く姿ではなく、実際の姿を見抜く存在との関係に入ります。
サタンとの真の関係を歩むとは、自らの外に存在する基準に照らされることです。それは恣意的な道徳規範ではなく、自分が引き受けたこと、自分を何者だと表明したかという基準です。サタンが外からそれを押しつけるのではありません。自らが選んだことの証人として、その基準を保つのです。
私たちは、真摯に探究する方々、実在する何かの呼びかけを感じ、象徴や比喩だけで満足することを望まない方々に、この共同体の会員となることの意味を探っていただきたいと考えています。