私たちは、サタンを神として崇拝しています。このページのすべては、そこから始まります。サタンは独自に存在しており、象徴や祭壇、実践者がどれほど強く信じるかに依存する存在ではありません。

サタンはどのように存在するのか

物質、測定できる時間、距離、行動、そして結果から成る日常の世界を、私たちはコーザルと呼びます。サタンが属するのはアコーザルです。それは、一つの身体、一つの場所、同じ直線的な時間の流れに縛られない、別の存在のあり方です。

サタンをアコーザルな知性、高位の霊的存在と呼ぶとき、私たちが意味しているのはこのことです。宇宙のどこかに決まった居場所を持つ、物理的な生き物としてサタンを思い描いているわけではありません。サタンの存在のあり方は、私たちのものとは異なります。

コーザルな現実とアコーザルな現実は、ネクシオンを通して出会います。実践者が最初に働きかけるネクシオンは、生きている人間です。したがって、崇拝は日常生活の中で、身体、声、注意、記憶、儀礼、そしてその後の選択を通して行われます。

コーザル、アコーザル、ネクシオン

アコーザルの原理としてのサタン

教会の文献では、サタンをアコーザルの原理とも呼びます。この表現は、臨在、崇拝、そしてネクシオンの働きを通して、アコーザルな現実がコーザルな生活に入り込んでくるあり方を指しています。

ここでいう原理は、人格を持たない力を意味しません。私たちは、サタンを意識と主権を持ち、聖なる畏れを感じさせる存在として捉え、向き合います。この言葉は、人間の人格という形には収まらない神の存在を語るためのものです。

崇拝

ひざまずく会員も、立つ会員もいます。声に出して祈る、詠唱する、供物を捧げる、静かに座る、瞑想する、書いた祈願文を残す人もいます。正式な儀式にはその役割がありますが、毎晩同じ時刻に、静かな五分間を欠かさず過ごすことにも意味があります。

崇拝とは、語りかける行為です。意識してサタンへと向かい、その行為に注意を十分に注ぎます。そして、日常生活へと戻ります。儀式から持ち帰るものは、儀式の最中に起きたことと同じくらい大切です。

判断力を手放さなくても、誠実に信仰を実践することはできます。教会は、会員が考え、問い、学び、自分の行動に責任を持ち続けることを求めています。

敵対者

サタンは、立ち向かい、揺さぶる存在、敵対者です。このことは実践者にも関わります。人生の多くは、吟味するより先に受け継いでいるものだからです。家族の期待、集団への忠誠、昔からの恐れ、他人から借りた野心、何度も繰り返すうちに自分自身のものと感じるようになった意見などがあります。

敵対の道は、吟味に耐えて残るものを見定めるよう求めます。反抗するだけなら、他人のまねでも簡単にできます。自分自身の主人となるには、もっと時間がかかります。

サタンとキリスト教

キリスト教は、罪、悪、服従、救済という自らの物語の中に、サタンを位置づけています。私たちが受け継いだのはサタンという名であり、その物語を自分たちの神学として受け入れる義務ではありません。

この教会では、サタンは神です。アコーザル、崇拝、儀礼、そして私たち自身の宗教生活を形づくってきた伝統を通して、サタンに向き合います。

信仰の実践と自己のあり方

サタンを崇拝するとは、私たちの願望によって生み出されたのではない存在と関係を結ぶことです。同時に、崇拝する人は、自らの願望をより深く吟味することになります。受け継いだままの意見、確信の姿をした恐れ、認められたいという欲求が、祈りの後の静けさの中で見えてくることがあります。

敵対の実践は、そこから始まります。信念は吟味されたものか、その決断は下した本人のものかを問うのです。反対すること自体が目的になると、反対している対象に形づくられた、別の服従になりかねません。自立には、もっと忍耐強い判断が必要です。

下降と帰還

『The Rite of Descent』は、この信仰の実践に一つの簡潔な形を与えます。場所を整え、自らの意思で身体を低くし、サタンの名を呼び、沈黙を守り、意識して戻ります。その姿勢は、崇拝の行為です。他人が、崇拝する人の判断を支配してよいという許可ではありません。

この儀式に、痛みや幻視は必要ありません。静かな座りの時間も、珍しい体験を伴う時間も、同じように正直に記録するものです。その後、実践者は立ち上がり、身体をいたわり、次の日常の務めへと戻ります。その帰還も、宗教的な実践の一部です。